文治政治の確立
好学尚武の藩風
徳川幕府の礎
好学尚武の藩風
徳川幕府の礎
會津藩政
會津藩主のときには、正確な石高の算出による「年貢の適正化」や米を備蓄し飢饉時に貸付する「社倉制度」、世界初の年金制度とも言える「養老扶持」を設けるなど民政に力を注ぎました。
経済においては、漆や蝋などの藩外持ち出しの制限や漆木の伐採を制限するなど産業の育成と振興に努めました。
教育においては、朱子学を藩学として奨励、また、後の日新館(会津藩士子弟の教育機関)となる日本初の民間学問所「稽古堂」の税金を免除するなど奨励し、藩士の子弟教育に尽力、好学尚武の藩風を作り上げました。
また、正之公が暦学者・渋川春海に暦作り(貞享暦)を命じたことから、會津では天文学が盛んで、日新館でも天文学を取り入れた授業を行っていました。天文台は、弘前藩(青森県)、水戸藩(茨城県)、薩摩藩(鹿児島県)などの藩校でも建てられましたが、暦作りが終わると壊されたため、日新館天文台跡が現存する唯一の天文台跡で日本最古のものになります。平成31年3月13日には、日本天文遺産の認定第1号に選ばれています。
さらに、会津藩の精神的支柱であり行動の規範となった「會津家訓十五箇条」を制定し、幕末まで続く文武両道の會津藩の基礎を築きました。
<主な事績>
①正確な石高の算出による「年貢の適正化」
②旅人が医療を受けられる仕組み「救急医療制度」
③産子を殺す悪習「間引きの禁止」
④飢饉時に貧農・窮民を救済した「社倉制度」(明暦元年/1655年)
⑤90歳以上の高齢者に1日玄米5合を支給する「養老扶持」(寛文3年/1663年)
⑥日本初の民間学問所「稽古堂」の奨励(寛文4年/1664年)
⑦會津藩の憲法ともいえる「會津家訓十五箇条」(寛文8年/1668年)
江戸幕政
慶安4年(1651年)徳川三代将軍家光公は、臨終に際し、正之公を枕頭に呼び寄せ「肥後(=正之公)よ宗家(=徳川家/家綱公)を頼みおく」と遺言しました。
これが後世に伝わる「託孤の遺命(たっこのいめい)」です。
家光の死後、正之公は遺命により甥の四代将軍家綱公の輔佐役(大政参与)として幕閣の重きをなし、「玉川上水の開削」や将軍家綱の三大美事と高く評価された「末期養子の禁の緩和」「殉死の禁止」「大名証人制度の廃止」などを実施し、文治政治を推し進めました。
明暦3年(1657年)、江戸の2/3を焼失させた明暦の大火後の復興政策では、火除け地としての上野広小路の設置、両国橋の新設、芝と浅草の新堀開削、神田川の拡張などに取り組み江戸の防災性を向上させました。
焼け落ちた江戸城天守の再建に際しては、「実用的な意味があまりなく単に遠くを見るだけのものであり、城の守りには必要ない」「無駄な出費は避け、都市整備に充てるべき」と意見し、江戸城天守は再建されませんでした。
また、暦法について、貞観4年(862年)から宣明暦をもとに暦を作成していましたが、800年以上に渡って使用していたため暦と日蝕や月蝕などの天の動きが合わないことが問題となっていました。そこで、正之公は天文暦学者・神道家の渋川春海を寵遇し、改暦を命じました。渋川が作成した「貞享暦(じょうきょうれき)」は後の太陰暦の基となり、渋川は江戸幕府の初代天文方を務めています。
<主な事績>
①各藩のお家断絶を減らした「末期養子の禁の緩和」(慶安4年/1651年)
②優秀な人材の喪失を防いだ「殉死の禁止」(慶安4年/1651年)
③江戸市民の飲用水の安定供給に貢献した「玉川上水の開削」の建議(承応2年/1653年)
④明暦の大火からの「江戸復興・防災都市整備」(明暦3年/1657年)
⑤大名及びその重臣から人質を取っていた「大名証人制度の廃止」(寛文5年/1665年)
⑥渋川春海への日本初の和歴「貞享の改暦」の命(貞享2年/1685年)