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由緒

万代と
祝ひに来にけり
会津山
高天の原に
すみかもとめて

万代と
祝ひに来にけり
会津山
高天の原に
すみかもとめて

土津神社の建立

「土津」の霊号を奉られた際、「余の没後は神道の礼をもって磐椅神社の神地に葬ってもらいたい」という遺書を老臣たちに与えて、御子・正経公に伝えさせました。

正之公は、寛文12年(1672年)8月21日に自ら猪苗代に参られ見禰山に登って墓地を定め、「我が身はここに納めてくれ」と家臣に命じられ、「万代と 祝ひに来にけり 会津山 高天の原に すみかもとめて」と詠まれました。吉川惟足は傍らにあって、御歌に応えて「君ここに 千歳の後の すみところ 二葉の松は 雲をしのがん」と詠じ、正之公はことのほか感じ入られて帰城されました。

同年12月16日、江戸に戻られた正之公は容態すぐれず、老臣・友松勘十郎氏興を病床にお呼びになり葬事奉行を命じられ、戸板真五郎を副役として後のことを託されました。同月18日ご逝去。そこで、友松勘十郎氏興は正之公の遺命の通り神道の礼を尽くして見禰山に葬り、吉川惟足を招いて葬事を行わせました。

遺言により二代藩主正経が家老の友松勘十郎氏興に土津神社の建立を命じ、延宝元年(1673年)神祇官領長・吉田兼連がご神体を奉じて仮殿に安置。このときより、壮大にも壮麗な神殿の営築を開始し、延宝3年(1675年)8月19日落成。同月23日正遷宮の式を行い、御神体を正殿に安鎮し、磐椅神社の末社とされました。

正之公は、この地が若松城(鶴ヶ城)の丑寅の方角(鬼門)にあたることからこの地に眠ることで會津藩を守ろうと考えたようです。

重厚な感時門や廻廊、透塀などを持つ荘厳華麗な神殿造りの社殿は「東北の日光」と言われましたが、戊辰戦争で消失し、明治13年(1880年)に拝殿などの主な部分が再建されて現在に至っています。

「土津」の由来

「土津」は、「万物の理(神道の奥義)を究められた会津藩主」という意味です。

正之公は、晩年に至るまで神道を尊信し、吉川惟足を師としてもっぱら吉田神道(卜部神道)の伝を学び、道の奥義を極められ、寛文11年(1671年)に吉川惟足から霊号を「土津」と奉られました。

五行思想では「木・火・土・金・水」から万物がなると考えます。その中でも「土(つち、はに)」は、​​宇宙構成要素の根本であって、土から生まれ土に還ると言うように万物の始めと終わりを象徴するもので、その理を体得したことから、會津の「津(つ)=會津藩主」と合わせて「土津」と名付けられました。