よくあるご質問と回答
- Q1.神社名の「土津(はにつ)」の由来は何ですか?
主祭神の保科正之公は、生涯をかけて神道や朱子学を研究されました。五行思想では「木火土金水」の関わり合いにより万物がなると考えます。
その中でも「土(つち、はに)」は、宇宙構成要素の根本であって、土から生まれ土に還ると言うように、万物の始めと終わりを象徴するものです。
「津(つ)」は會津藩主の意です。
正之公は、万物の理(神道の奥義)を体得されたことから、師であり吉川神道の創始者である吉川惟足から「土津霊神」との霊号(神さまとしての名前)を奉られました。
神社名はこれに由来しており、つまり、「土津」とは、「万物の理(神道の奥義)を究めた會津藩主」を意味しています。
- Q2.どうして「こどもと出世の神さま」なんですか?
主祭神の保科正之公は、會津藩の精神と行動の規範となった「會津家訓十五箇条(あいづかきんじゅうごかじょう)」を制定して幕末まで続く文武両道の會津藩の基礎を築きました。
その第一条は、「大君の儀」と呼ばれています。一、大君の儀、一心大切に忠勤を存すべく、列国の例を以て自ら処るべからず。若し二心を懐かば、則ち我が子孫に非ず、面々決して従うべからず。
“大君(徳川家)には一心大切に忠勤を励み、他藩の考えを判断材料としてはならない。もし不忠な心を抱いたなら、それは我が子孫ではないから家臣は主君に従ってはならない。”
「大君の儀」は、徳川家への忠義を説いたもので、戊辰戦争では、他藩が新政府軍に鞍替えする中、會津藩は最後まで幕府軍の主力として戦い、結果的に賊軍と呼ばれることになってしまいましたが、そこには「義に死すとも不義に生きず」という徳川家への忠義の心がありました。
この義の精神は、「ならぬことはならぬものです」で有名な會津藩士師弟の心得である「什の掟」、そして、現代では、「あいづっ子宣言」として會津に息づいています。保科正之公が大切にした、この義の心は、健やかな人間形成に資すること、そして、ご落胤という不遇な生い立ちながら、徳川家への忠義の心が篤く優秀で江戸幕府大政参与まで引き立てられたことから「こどもと出世の神さま」としてお祀りしています。
- Q3.どうして鳥居が白いんですか?
鳥居は赤でなければならない決まりは特にありません。概ね五色[青(緑)・赤・黄・白・黒(紫)]が採用されます。
全国に神社は8万〜10万社ありますが、その内3万社が稲荷神社系です。稲荷神社が赤の鳥居を採用していることから、頻繁に目にするのだと思います。
赤は五行説で「火」を指し、火が穢れを燃やし尽くすことから、魔除け・清浄の意があります。
同じく、白にも清浄の意があり、主祭神の保科正之公が謙虚な方であったため、当神社では、能動的で強い赤でなく「白」を採用しています。
- Q4.奥之院って何ですか?
主祭神である保科正之公の奥津城(神道のお墓)がある区域が奥之院です。
本殿より奥で神霊を祀った所を奥之院と言います。それは寺院に置き換えても同様です。
二代藩主・保科正経公から九代藩主・松平容保公の墓は、会津若松市東山町の松平家院内御廟にあります。
松平家院内御廟は、正之公の最初の子だった正頼公が亡くなった明暦3年(1657年)に正之公が開設したもので、二代藩主・保科正経公は仏式によって葬られていますが、三代藩主・松平正容公から九代の松平容保公までは、全て神式で埋葬されています。
松平家院内御廟とともに會津藩主松平家墓所は、国指定史跡に指定されています。
- Q5.會津の殿様なのにどうして猪苗代町にお墓があるんですか?
保科正之公自身が會津を巡り猪苗代町見禰山の地を自身が眠る場所として選んでいます。
この地を選んだ理由はいくつか考えられます。
○若松城(鶴ヶ城)の丑寅の方角(鬼門)にあたることからこの地に眠ることで會津藩を守ろうと考えた。
○東に、式内社として格式が高く、會津磐梯山の古名「磐椅山(いわはしやま)」に由来し、神体山崇拝の歴史を現在に伝える磐椅(いわはし)神社が鎮座している。
○北に霊峰・會津磐梯山、南に天鏡・猪苗代湖を望む風光明媚な地である。
実際に、土津神社は磐椅神社の末社に位置づけられています。
また、徳川家康公にまつわるレイラインに、不死の道・太陽の道・北極星の道があり、その中でも不死の道は、[富士山−久能山東照宮−富士山−世良田東照宮−日光東照宮]を結んだもので、日光東照宮と土津神社を結ぶと続いてきれいなラインを引くことができます。
徳川家への忠義の表れとしてこの地を選んだのかもしれません。当神社では大義の道と呼んでいます。
- Q6.神社なのにお墓があるんですか?
神式のお葬式を「神葬祭(しんそうさい)」と言い、お墓を「奥津城(おくつき)」と言います。
神葬祭が一般に開かれ始めたのが1785年のようなので、保科正之公の神葬祭が黎明に当たると思われます。
神葬祭は、故人の御霊をその家にとどめて、家の守護神となってもらうための儀式です。
仏式の葬儀・告別式に当たるものを「葬場祭(そうじょうさい)」と言い、故人の御霊が宿る依代(よりしろ)が「霊璽(れいじ)」です。
葬場祭では、故人が生まれてから逝去されるまでの履歴や功績を奏上し、遺族・親族・参列者で故人を偲びます。
霊号は神さまとしてのお名前で、氏名の下に「命(みこと)」の号をつけた「○○○○命」という霊号が一般に多いです。
「命」の前に、男性の場合「大人(うし)」、女性の場合「刀自(とじ)」をつけ「○○○○大人命」「○○○○刀自命」とする場合もあります。こどもの場合「彦」「姫」をつけることもあります。
仏式のものを神式に当てはめると次の通りです。
○葬儀・告別式 → 葬場祭(そうじょうさい)
○焼香 → 献水(けんすい)/玉串拝礼(たまぐしはいれい)
○お墓 → 奥津城(おくつき)
○戒名・法名 → 霊号(れいごう)
○位牌 → 霊璽(れいじ)/御霊代(みたましろ)
○仏壇 → 神徒壇(しんとだん)/祖霊舎(それいしゃ)
- Q7.石碑にはどんなことが書かれているんですか?
境内にあるひときわ大きい石碑は「土津霊神碑(はにつれいじんひ)」と言います。
主祭神である保科正之公の生い立ちや人柄、功績、功徳を称える文が刻まれています。
全高7.6m、重さ30トン、面積22畳分で、碑の大きさは日本一と言われ、竿石は約12kmの距離を人夫1日2,000〜3,000人で7ヶ月かかって運んだと言われています。
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